紀伊国屋文左衛門のライフプラン

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紀伊国屋文左衛門のライフプラン

2019/05/18 紀伊国屋文左衛門のライフプラン

夏が近づいてきました。もうすぐ全国あちこちで花火大会が開催されます。

 

日本初の花火大会開催は、記録上では徳川家康とのこと(本当はもっと前からあったようですが)。それに因んで、江戸時代の豪商・紀伊国屋文左衛門(以下、紀文)についてお話しします。

 

紀文は寛文9年(1669年)現在の和歌山県有田郡に生まれ、享保19年(1734年)東京・深川で没した、66年の生涯でした。当時としては長生きだったのでしょうね。将軍でいうと四代(家綱)~八代(吉宗)の時代にあたります。

 

7歳のとき、父親から50文(現在の約1,250円)を借りて材料の竹を買い、職人の助けを借りて竹とんぼを作って村の夏祭りで売り、1,000文(同25,000円)の利益を挙げたそうです。小さい頃から商才を発揮したのですね。

(ちなみに父親は約束した利息も含めて55文を受け取ったそうで、商売の基本を教えた父親もエラいと思います。)

 

また京都まで参拝に行けないお年寄りのために、お寺の許可を得て釈迦像を借り出したこともあるそうです。紀州までの道すがら立ち寄った村々で多数の参拝者を集め、その持参した金品類が予想外の収益になったとのことです。

 

紀文の名誉のため付け加えると、金儲けが最初から目的だったのではなく、前者は弟・妹が夏祭りで寂しい思いをしないように(紀文の生家はあまり裕福ではない10人家族でした)、後者は高齢者への慈悲(拝んだ人は涙を流して有り難がった由)、つまりどちらも人助けが動機だったということです。

 

紀文は後年、材木商として名を成しますが、若い頃は漁師や樵(きこり)も体験したそうです。樵のとき、地元紀州の材木商の一人娘(お美輪さん)と恋に落ちますが、大旦那にばれて追い出され、江戸に向かいます。その際「日本一の財産家になる」との固い決意があったようです。

 

ちなみにお美輪さんは父が命じた嫁ぎ先には行かず一生独身で過ごし、後日病気になって寝込んでしまい、一時帰郷した紀文に看取られて亡くなるそうです。

 

江戸の人口は、初期の頃でも約100万人(武士・町民それぞれ50万人)!

ほぼ同時代のパリが55万人だったそうなので、すでに大都会でした。幕末時は農家の次男・三男や地方商人が大消費地・江戸を目指したこともあって、町人数が70万人(なので120万人)に達したそうです。

 

江戸では当初、同じ紀州領内出身の豪商・河村瑞賢の家に居候(その仲間に、やがて六代将軍・家宣に重用される儒学者の新井白石もいました)、やがて自分で店を出します。いわばライフプラン通りだったのでしょう。

 

そんなある時、紀州のミカンを江戸に運ぶよう、紀文に「神のお告げ」があったそうです(ここは浄瑠璃などの脚色でしょうけど・・・)。

 

江戸の「ふいご祭り」(鍛冶屋や刀工・鋳物師など、ふいご=火をおこすための道具=を使う人々が旧暦11月8日に行うイベント)で、往来へミカンをまいて子どもに拾わせる風習があり(※)、従ってその時期にはミカンを大量に消費します。お告げのあった年(正確には分かりませんが、紀文20代の頃)は、紀州はミカンが大豊作、逆に江戸では品不足で価格が高騰していたそうです。

 

(※)ふいご祭りは、名称や風習が異なるものの、現在も各地で行われています。

 

嵐の中ミカンを江戸に運んだことで財をなすとともに、紀文は江戸で大変な人気者になります。もちろん「紀州=ミカンの名産地」という、今に続くPR効果も絶大だったことでしょう。

 

(物語によると、船が嵐で沈没しかけ、紀文が「もうダメだ」と思ったとき、お美輪さんの霊が現れて救ってくれたことになっています)

 

翌年、紀文は材木商として繁忙になったため、ミカン船をやるつもりは最初無かったようですが、江戸庶民などの強い期待や要望を受け、弟に頼んで再現させたそうです。

 

材木商としては幕府高官と懇意になって御用商人に取り立てられ、上野・寛永寺中堂造営の普請(公共工事)も手掛けるなど、順調に業績を伸ばしていきます。

 

この頃、ライバルの奈良屋茂左衛門(通称:奈良茂、日光東照宮修復工事の普請を受注)と吉原で豪遊を競った逸話も残されています。これには要人との人脈づくりに加えて、広告宣伝効果も大きな狙いだったと言われます。さすが商人ですね。

 

ただし紀文と奈良茂のライフスタイルは対照的で、紀文は自宅・店舗・別荘・倉庫を分け、奈良茂は集中させたとのこと。分散はリスクマネジメント(江戸は火事が多かったので)、集中は機能性の向上に役立つので、どちらを重視するかの違いなのでしょう。

 

その後、紀文は時の勘定奉行・荻原重秀の意向を受け、金銀の含有量を下げた「元禄金銀」の発行という貨幣鋳造に乗り出します。これにより幕府財政は一時的に上向くものの、やがて暗転。危機を救うため新井白石が登用され、いわゆる「正徳の治」を断行します。

 

この改革でとられたデフレ政策が材木価格の暴落を招き(デフレはお金に対してモノの価値が下がりますね)、また幕府高官とのコネが途絶えたこと(かつての居候仲間・新井白石は、大変潔癖な方だったようです)、さらに店の後継者問題もあって、紀文は閉店を決断します。すなわち一代限りの豪商だったのですね。

 

背景として、元禄時代はいわばバブル景気、続く宝永年間はその崩壊による閉塞感充満という、大きな時代の変化もあったと思われます(加えて元禄~宝永は、大地震が頻発した時代でもありました)。御倹約令も発令されますが、一度メタボ化した家計を引き締めるのは、いつの時代も簡単なことではないでしょう。

 

閉店後の紀文については記録が少ないためか、貨幣鋳造で資金が枯渇し悲惨な晩年だったとする説と、閉店時に解雇した従業員へ十分な退職金を支払ってなお十分な(一説には現在のお金で300億円以上の)財産を有し、深川・富岡八幡宮への寄進も行ったという真逆の説があって、真相は藪の中です。

(そもそも紀文は実在人物ではないとする説もあるらしいです)

 

余談ですが、現在、本文中で使用した略称と同名の、おでんの具などを製造する会社がありますが、紀伊国屋文左衛門とは無関係のようです(HPによれば、創業者が日本一の商人を目指したそうです)。また、やはり同じ屋号をもつ大手書店も、やはりHP上では創業者の先祖が紀州出身(しかも材木商)だったそうですが、それ以上のつながりは無さそうです。

 

紀文にはライフプラン(野心と言った方がいい?)があり、かつそれを支える(たぶん緻密な)計画性や実行力もあったのでしょう。それと住まいのリスク対策など、現在でも学べる点があります。逆に言うと、ライフプランニングの本質は江戸自体から変わっていないのですね。

 

最後に、紀文のような豪商は別として、多くの江戸庶民は狭い長屋(9尺2間、2.7m×3.6m)に住み、みんなで地域の子どもを育て、かつお年寄りを支えていました。

最近は異常気象ゆえか大災害が頻発していますが、日本人の心底には、たかだかここ数十年のグローバリズムなどに屈することのない、260年続いた江戸時代の共助の精神が受け継がれていると信じたいですし、美徳なのではと思います。

 

(本稿を書くにあたり、山木 育著「紀伊国屋文左衛門の生涯」マネジメント社刊 を参照しました)

 

 

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